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(コラム)ソーラーを勧める理由

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imageソーラーを勧める理由。それは太陽の絶大さが、なにものにも有無いわせず、
永遠に追随を許さないほどであること。それゆえに、出ずる朝日に「ありがとう」、 沈む夕日に「ありがとう」と言う暮らしがいちばん幸せであることが間違いないからです。
地球上の森羅万象、川のせせらぎも葉を揺らす風も、我々の日々の営みも、太陽に関係ないというものはありえません。どんな暗い洞窟の中にいようが、深い海の底にいようが「わたしは太陽と一切かかわりがない」とは誰も言えないでしょう。今さらいうまでもなく、けれども当たり前すぎて、はっきり意識してないかもしれませんが、それほど圧倒的なものなのです。
imageまず、資源としての太陽の熱と光は無尽蔵。1時間、太陽の光が降り注ぐと全地球の1年分のエネルギーが賄えるといいます。使いすぎてなくなることがありません。また、だれの所有ということはありません。だれもがそのエネルギーをいくらでもいただくことができる。明日や100年後になくなるということはない。まさに「日はまた昇る」です。太陽を巡って争いは起こらない。争うことはできず、太陽に基けば、完全に平和で平等です。原始の日本に住む先祖は、そういう心で、そういう暮らしだったはずなのです。それが本来の神道 、かんながらの道だそうです。
奈良に住んでいますと、日は山から昇ってきます。毎朝、日拝をしていてわかってきましたが、日の出の瞬間、パッと山が目覚めます。そしてだんだん日が高くなり、山を完全に見下ろす位置に来た時、山全体が白く輝いて、いっせいに光合成をはじめ、生産活動が盛んになっていきます。たとえば、このことを先祖たちは「やおよろずの神」と言ったのでしょう。そして酸素が供給されて、わたしは今日も生かされている。天つ神、国つ神、そして、やおよろずの神に感謝せずにはいられません。そして自分もまた神の一員として、自分なりの使命で今日も1日誠を尽くそうと思います。植物時代の先祖同様に、手の平から太陽の熱と光を吸収させていただくと、それだけで何か大事な養分は与えられるらしく、食べ物は貪るほどには必要を感じなくなり、一口一口の味わい深さが違ってきます。いのちにとって、太陽を直接的に取り込むことが最も大事だとわかります。
image皆さんは、伊勢神宮には今まで何度か行かれましたでしょうか。わたしが初めて参拝したのは小学6年修学旅行の時。その時、正直なところ特別な神気のようなものは感じませんでした。最新の式年遷宮の年、2013年の時や最近参拝した時はというと、やはり同じでした。内宮の正殿に行くほど、何もない。まっさらなのです。シンプルなのです。実は、このことこそが神髄ではないかと感じています。何もない、まっさらだからこそ、そこからとてつもないパワーが生み出されるのではないでしょうか。
これと同じことが、太陽光発電という営みの中では起こっています。今のところの技術でいうと、太陽の光が発電機の中に差し込むと、P半導体とN半導体(つまり陰と陽、 プラスとマイナスということなんだろうと思いますが)、の間に 空 という状態ができて、次の瞬間、何事かがブレイクして、発電するほどのすごいパワーとなる。色即是空の空、マイナスでもプラスでもなくゼロ。そして新たな創造というサイクルが繰り返されている。神宮での日々の神へのお供えは、1日も欠かされることなく今日に至るまで千年以上続いている、その営みと同じです。
これから、どのようにソーラー技術が進歩していくのでしょうか。いずれにしても、太陽の力を取り入れる技術こそが最高の科学ではないかと確信しています。